生きるのは死んでいるに近く、そうかと死んでいるのかなは生きるののに近い

欲望というのは良くできてる。いわゆる我欲だ。どの方面の我欲であろうと生きる直接の意思ばかりでないだろうが間接的にアレやりたかった、やってる途中だったというところある。本人は生きようと、まだ死なないと思ってたと思うよ、とテレビ番組で刑事さんみたいの言うときがあるけど、ソレも多分あるんだろうが、それは突然死の場合。通常はポイと欲さらけ出し、その満足で生きてる、生存を確認してる自覚してる。欲=意思=生きる、となっている。それはどこか主観的なんだけど他者が例えばよく行く牛タン屋の焼き手が違う、段々弱ってきたなと見るかとは別個なんだけど、でもそういう他者の視線は無視されたところで、自分内で今生きてるんやろうか、このまま死へ赴くのか、の行く先場所の揉め具合いを感ずる事がある。それは薬の影響下であろうと思う、要するに意思が不鮮明朴鮮明ならコレはまぁボケみたいなもんだから生きてるんだか死んでいるんだかわからなくなっちゃうンだな。

決然といきることについて

今日例えばアマゾンに注文する。それが一週間程度で届く。その間に周囲や自分がどうなってるか分からないけど、その一週間というものについて自分はそれをがっしり信頼している。明日かとか明後日とかでなく、その注文決済配送到着までを信じて、そのものが到達したときの自分の変化或いは喜びを受け止めるべく自分は行動している。或いはその間に持病があり悪い事態になるとかアクシデントに巻き込まれてその受け取り時点で受け取り人として立ち居振る舞い出来なくなったとしても単なる確率論を超えて少なくとも注文した時点での確信とかの心的作用は決して自分を偽らないし凛孤として存在し持続してる。外形的変化がどうであれ自分の内心は決して壊れるものではない。それこそ生きてるというそのものだろ。それに加えて、注文からの受取までの流れの中で今の自分はそのままの何の変化もなく、成長も退廃もなくそのまんまであるとも確信してる。逆にモノを将来に設定することは、そのものに囚われて自分の今をクリップかなにかで固定することになる。何もかも自由ではない。持続させるためにこそある行為の中で自分を留めなヶれはならず、その将来に身を託すためにこそ今の自分に為すことを課さねばならない。

一年前

一年前はちゃんと生きていた。死ぬ気もしなかった。新コロナなんてなかった。でも一年後変わる。死に物狂いで生きなきゃ成らなくなった。それは確実に死への接近なんだろ。歩いていた道が傾いたのか道が別れてたのか違う道に入ったのか?いえいえそうではない。何もかも必然的に何か弱ってきた、確実に喪とに戻れぬパワー不足に遭遇している。それは感性としてそう思うだけでなく肉体的にそうなったのだ。避けられな側面をさらすときそこでどうさらすか元気なうちにかんがえおく必要性が動物としての自分にある。

おなかとおなら

ほとほとこういう姿勢(病伽)の姿勢になってしまうと、ほとんどの物事はまたそれに対する関心はこうした態勢での生き方と関連し、それを掴まえるというよりはこうした状態での肉体への今まで知らなかった内部からの信号みたいなのを察知したり勝手に解釈したりとかに変質していってしまう。今回一番疼きつつ感じたのは、平凡なのかもしれぬが「おなか」という思想である。お腹ともお中とも書くが部位的にはお腹なのだがそれよりか身体が発する源或いは全ての悪や善を受ける先の中心としてある、見えないけれど確実に存在を知らせる抽象的「おなか」である。もっと平たく言えば「ぽんぽん」、子どものころ母さんおなか痛い、学校でも保健室行くときの愛用ワード「おなか痛いんですけど」のそれ、その時はお腹というのは全体図の部位とか箇所だったけど、こうして生死に晒されるときはお中というのが相応しいように思える生と直結するなにか、擦る摩るする太っ腹の部分、あっそれが江戸時代なんて庶民なんの医学知識も無いのにはらさすって此処ですという箇所が、やはり中心としてセンターとして実存しそれに自分自身も寄りかかってる。そこの感覚を伝えにくいが何か書くが、それが他人に活躍中の他人様にどの程度役立つとか関係するのかわからない。でも人間とか肉体とかの細々西洋医学よりのものでなくおなかをキャッチした方がやはり活きてには大きい気がする。まぁ嘘の認識かもしれないが。

大森さんてきまず存在してるもの

改めて読むと私のことしか書かれてない気がするので捕捉する。まず存在というのは二本足立ちした人間としての存在ではない。産まれたとき死んでいくと同じく横たわっている状態としての存在である。動きができない状態、或いは横たわりつつ動こうとしている状態である。端的な場合として病気になり立ち往生し倒れた状態といっていい。そんな風な存在としての自分である。立ち直れるかはたまたそのままもっと横たわるかのような自分の状態である。これとこの状態の自分というのと私とは違う。横たわっている自分は他人が認知している私とは重なっていない。私というのは外郭であり外覚であり、自分というのは内郭であり内覚である。本来持っているそれをトウギョする能力を失った状態になった自己ということである。

大森荘蔵のここにいる論について

彼がまず人の体の範囲でまずここに人は横たわりおるんやというから出発原点とするのはよく理解できる。それは病人であろうと勝利のフィニッシュを終えた歓喜状態であっても動かしづらいものとして自分に感じてくる実感である。それではそれは自己でないのか私というものではないのか?と問われるとそれは違うものと言う他はない。私というのはその実感に先立たず又遅れもしない何かで一つの時間の流れのタイムキーパーであり、それを通して社会から扱われる何かである。そこにズレも発生することもあるだろう。死とは存在としてのものが最早タイムキーピングを要しない状態に至ることで時間の流れは塞き止められ私は他に目的がない限り消滅する。その前に個人のいしきとしては存在が消滅するがそれはその個体から見た順番であって、社会からすると私と思っていた貴方がまず死んでほぼ死因検案するまでもなく死者として横たわる人間がモノかし死んだと実感するのである。もう少し、存在の終結については書こう。しかも大森荘蔵の理解は対談集のどこか数行から思い付いたことであんまりあてにならない。私?にとり思っていたさんはそんなに重要ではない。