おなかとおなら

ほとほとこういう姿勢(病伽)の姿勢になってしまうと、ほとんどの物事はまたそれに対する関心はこうした態勢での生き方と関連し、それを掴まえるというよりはこうした状態での肉体への今まで知らなかった内部からの信号みたいなのを察知したり勝手に解釈したりとかに変質していってしまう。今回一番疼きつつ感じたのは、平凡なのかもしれぬが「おなか」という思想である。お腹ともお中とも書くが部位的にはお腹なのだがそれよりか身体が発する源或いは全ての悪や善を受ける先の中心としてある、見えないけれど確実に存在を知らせる抽象的「おなか」である。もっと平たく言えば「ぽんぽん」、子どものころ母さんおなか痛い、学校でも保健室行くときの愛用ワード「おなか痛いんですけど」のそれ、その時はお腹というのは全体図の部位とか箇所だったけど、こうして生死に晒されるときはお中というのが相応しいように思える生と直結するなにか、擦る摩るする太っ腹の部分、あっそれが江戸時代なんて庶民なんの医学知識も無いのにはらさすって此処ですという箇所が、やはり中心としてセンターとして実存しそれに自分自身も寄りかかってる。そこの感覚を伝えにくいが何か書くが、それが他人に活躍中の他人様にどの程度役立つとか関係するのかわからない。でも人間とか肉体とかの細々西洋医学よりのものでなくおなかをキャッチした方がやはり活きてには大きい気がする。まぁ嘘の認識かもしれないが。