大森荘蔵のここにいる論について

彼がまず人の体の範囲でまずここに人は横たわりおるんやというから出発原点とするのはよく理解できる。それは病人であろうと勝利のフィニッシュを終えた歓喜状態であっても動かしづらいものとして自分に感じてくる実感である。それではそれは自己でないのか私というものではないのか?と問われるとそれは違うものと言う他はない。私というのはその実感に先立たず又遅れもしない何かで一つの時間の流れのタイムキーパーであり、それを通して社会から扱われる何かである。そこにズレも発生することもあるだろう。死とは存在としてのものが最早タイムキーピングを要しない状態に至ることで時間の流れは塞き止められ私は他に目的がない限り消滅する。その前に個人のいしきとしては存在が消滅するがそれはその個体から見た順番であって、社会からすると私と思っていた貴方がまず死んでほぼ死因検案するまでもなく死者として横たわる人間がモノかし死んだと実感するのである。もう少し、存在の終結については書こう。しかも大森荘蔵の理解は対談集のどこか数行から思い付いたことであんまりあてにならない。私?にとり思っていたさんはそんなに重要ではない。