女のピンクパンティー一論

大病し長時間の外科手術を終えてベットに戻ってきて頭は完全に妄纔していたときに出てきた言葉はある劇に台本になりかねない対話台本であってそれが切っても切ってもどくどくと溢れ出してくる感じだった。今ならさしずめこう思う。人間は一言喋るときもきっと心中対話を経て喋るものなのだと。回りくどいがそれが人間の言語なのだと。ソレはさておき、そうしたズタズタ人間に肉体精神されたものにも改めて性の訪れが来る。それが良い回復であるのは当然である。これから生きてく証の再来なのだから。異性を感じ異性に接触したいと願う気持ちは簡単に本能というけどそれも回復期のやつは極めて原初的な様相を呈する。映像が言葉と同じようにストックされるものなのか何か幾つかを加工して見せるものなのか、そもそも言葉の発語とは違って本能の火柱が立つものなのだからとてもそれは微妙だ。しかしその時は正に女の裸の映像である。想像力の産物ではない。何か見てきたものを脱がせて自分に見せようとする。一体何がそうさせるんだろ。例えばピンクのパンティをはいた女の絵姿は誰が合成したものなんだろね。好きですねとはちょっと違うんです。旦那さんいい娘いますよ、こんなんですがねとお写真見せられる感じ。ひょっとしたら男は自らポンびき仕掛ける人間を心のなかに宿してるのかもしれない。それにしてもなんでピンクパンティに弱いと知ってるんだ?