国家と国民

韓国対応が話題に上がってる。文政権というのは自分が法律家だったからそのコネで最高裁にも息のかかったのを入れ、その裁判官らに歴史的解決の判決を書かせた正に張本人であろうし、それを三権分立をたてにしてある意味狡猾に反日を催入したんだから正に個人プレー、謂わば嘗ての毛沢東文化大革命の自己保全の亜流なのだろう。だから今はこの男が失脚するのを待つしかないわけだがその間利用して日本も色々ジャブログを入れる、そんな状況だ。

 

問題はそういう側面もさることながら、結局見ていると国民、日本国民にもそれほど火が着いていないことだ。これは日本の政権にとっては実は困ることなんだろ。笛吹けども踊らず、とまで行かない、せいぜいよさこいソーラン祭り一部の躍り好きがダンス、踊っている程度の具合だ。とても韓国或いは北朝鮮や中国と臨戦する感情が共通になってない。穏便風も吹いている。

 

国力のハツヨウという観点から政府が言えば国民は従って貰いたい。右と言えば右に左と言えば左にいって貰いたい、でもこの反動くさい軍事色が強い安倍政権をもってしても国家と国民の視点から言えば従う人は少ない。従う人達も他の従わない人々への遠慮があったり自らから発する強制力を確信していない。

 

此は何も外交だけの問題ではなかろう。日本人は戦後スリープすることを覚えた。寝た振りが好きになった。強制されるのを怖がりそれに同調しなくなった。今中国に負けるなと国家が促しても、どうだろうそれで国のためと同期して動こうとする人達がどれくらいいるだろ。憲法が改正させたとしてその結果の延長線の国防や国力のハツヨウに手に銃を持ち心に魂をもって従う人なんてそんなに多数だろうか。

 

国家と国民について今の国民は国家レイジュウ型という人がいるけど、その反対のある意味どうしようもない事態が起きてるのではないか。その国民の漫然さをぐいと動かす力をどの政権も得てはいないのではないか。だから国家と国民の関係は世論とは逆の見方で困った状態となっている、俺はそう思う。