生き永らえのコスト計算

どうも病を得て退職した後は静かに病後から死への希望としてはなだらかな、しかし時間もさほどない死面の日々が訪れるものと覚悟していたが、実際はそういうものではなくより中途半端で指数的にも漸悪なことはなく、年相応の健康状態で推移している。更に健康や摂食に注意を払いこころ安らかにしていれば多くのその種の患者よりか長生きするのではないかとまで思い始めている。全くの誤算である。そんな頭で周囲を見れば、人々はたった一つしかないいのちと自覚もせず、体力知力精力にモノを言わせ逞しく生きている。その先にある死などは考えだにしない。家族があるものであれば喜びもあるしその喜びが自分が生きたまま続くのを願っていて、そこには家族愛に基づくしんせいな義務をはたさんとの気構えがあって更に生の充実感を高めている。そんな中彼らになくて私にあるのは何かというと生きてくことのコスト計算なのだと思う。それは生きてくのにどれ位かかるのだろうではなくて、死んでくまでどれ位かかるのだろうというある意味違う計算である。両者は途中で俺やめたと言えない点では似ているが、来るまでの期間は不定でもある期間は生きるとして足りるのか足りないのかの計算である。そこにはそんな治療とかに金使ってなんかどれだけの意味があるのかしらというのが組まれていて、コレは明らかに生きてくためのコスト計算にはないものなんだろ。それ式のことを呟けるものなら呟けたらと思う。