◯◯自体には私は興味ないんです、というところ

テレビのクラシック番組見てたら、クラーゼとか言うジョージア出身のピアニストが自分は演奏自体には興味がない、関心がないみたいな言い方をして、おっ俺とおっさんおんなじ、俺もセックス自体には興味がないわ、関心がないわとぴったりおんなじと、思ったら、このおじさんハイドンソナタ取り上げて、これはマリアテレージアか何かへの愛を、この作曲部分に盛り込んでいて、ほらこういう、この部分の小節、これがそうと解体的なことしゃべり始めて、あれれそこからそういう展開かよ!と思った。大部分違うけど、少しは重なるから、そこら辺りを少し…

 

土台セックスなんてのは生理的作用であったり、動物性の行動であったり、するけどどうしたって身体動かすから辛いし、愛のソウネンで人間は動くけど、それの重みは結婚してると下がってくる。パンツ一枚女房と蚊帳の中で戯れますかと言われても、それを貫徹できる人は少ない。そこで劇的というか刺激的要素を持ち込むのが人間であって、動物とはそこ一線で画される。

 

まぁその広大なフィールドは各人の嗜好で埋めてくしかない。上下関係設定したり、相手の一番弱い金の部分にはつけこんだりして、お楽しみの領域を増やす。そのブン悲しくなるようなこともあるし嫉妬などの人間性が現れる行為や感情の刹那がやって来るが、それもこれもひたすら性欲を高め、ある種の感情のもつれの中で果てる至楽を得んがためである。

そう考えればセックス自体の穴埋めは極論、その快感のゼンギみたいなもんである。

 

そう思うと、このクラーゼの演奏以外への関心というのは演奏という行為を高めるためのテクニックとも言えるのかもしれない。ただ微妙に違うのは自分にお預け喰わせるのは、そんなに自分の場合高尚なものでなく、一種のパニッシュだし、疲れ垢の部分の比重が結構重いのかもしれないと、いうところか。