死の視とりと読みとり

多くの人の場合、死は看取るものである。それは他人の死だからである。その死する他人がどのように考えながら死んでいくのかは正直分かるものではなく、様々な直前の体験を経て変容し死に至るのを眺めるだけである。しかし死んでいくものにとっては死というものは、自分の死に様はその以前から読み取ろうとする対象でありそれでしかない。自分の死を客観的に受容することはできない。かくなってこう動きどういう形でなくなるのかは死が休息であろうと、眠りと変わらないものであろうと分かりつつも幾つかの分水嶺を経て死に達するにして、それを具体的に感得したいと思い読み取ろうとする。今朝の放送でシュッツの宗教音楽が流れていた。この種の音楽、或いは宗教絵画というものは、死を具体的に感得させる何かを持ち備えている。コレは文字では決して達成しえないものである。全体としてこのようにお前は死ぬというメッセージを強烈に持っているものである。あぁこういう形でという型式を与える何かがある。そういう意味では西欧というのはオギャアとうまれたときから死んでいくとは何か、それを読み取ろうとする意思の文化である。そしてそれは今の日本の人たちの状況でもある。西欧化はたしかになされたのだろう。