67歳--17歳=0論

少し考えてみると幾つか条件があった。夫婦関係をこさえ子供を授かった。下の子は簡単にひとりでは大人になりきれない要素がある。本来なら父親として二人の子をかばわなくてはならない。それを離婚ゆえに放棄している?そこかは免れようと言ってるのか?それも少しはあるのかもれない。しかしそれはさほど大きいことではない、それよりも60代で世間でいう大きな病をし仕事も辞めた。後生は長くないかもしれない。それもある程度影響があるのだろうか。でもそうした状態の中で思ったのは、結婚も育児も仕事も病気も何も自分を変えることはなかった、どこも変わらなかったという所だ。これは別にいえば成長しなかった、経験が自分を進化させた、立派な大人として普通の人は死んでいくのにさっぱりそれの準備を怠っている、という実感になるんだろうか?でもそう思いつつ、では人間は死の準備するにしてもそれを忘れてホラホラといきることとそれに他人に頭押さえられ(ある意味嫁さんに、社会に、子供に、上司に)生きてくことの無意識の選択としていずれが純潤なんだろうか。そんな人から与えられる苦しみを乗り越えて生活しなきゃ人間らしい一生とは言えないのだろうか?それを深く考えず、苦しさから逃げる、というかさほどそれの影響下に落ちてかないということはある意味最も普通の人間らしいことではないのだろうか?そんな気持ちを多分続けてたら17 歳ぽい67歳になっていた。差し引きしたこの50年間は全く毎年セブンティーンだったのだ。どうしてこんなばか野郎になっちまったんだろかなともチラッと思う。責任感のないダメっぽい奴にいつの間に、と思いつつ成長ホルモンが全くなかったやつとしては今の今を説明すればそんな風になる。