君たちはどう死ぬるか1

こうやって不自由感を味わっていると、一体自分はどんな状態、状況で死んでいくのか気にかかってくる。戦争の際なら上官はこのように戦え、生きるか死ぬかは自分次第、いやもう帰ってこないかもしれないからそうして死ぬのだと教えてくれた。明日はあっても明後日はないんだな、どこかにぶつかったり敵砲にあって死ぬんだとわかった。君たちはどう死ぬのかは自ずとわかったのである。わかっても辛いだろう、しかし他に選択肢はない一本道のルートと想定される自己屍をロマンなく受け入れるしかない、その意味で逃げないなら気持ちとしては落ち着いてあり、そうした自分を受け止める余裕があつたといえる。しかし今の死の番人であるところの医師というのは生かそうが商売の本道だとしてあなたはどう死ぬのかを教えようとしない。まぁガンなどなら余命幾つと答えるがそれは時間を告知してるだけで、こうなりああなりの果てに君はどう死ぬのかは教えてくれない。それは非常に問題なのではなかろうか、どう痛みどうのたうち、体重はどうなり、体内から発せられる苦痛はどの程度緩和できるがそれでも痛い、苦痛である、それよりもその時アタマはあるいは精神は生活の勢いはどうなるのかを開示しない。目先の治療に専念すると称してこの先5年間ほどのあり得べき生きてく様を明らかにしなければ患者は医療の選択もできないし、この期間の整理の可能性も自得できない。それは相当に不味い困ったことではなかろうか、そう思う。